大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京高等裁判所 平成10年(う)497号 判決

被告人 ウォン・ション・ヴィン

〔抄 録〕

二 控訴趣意第一点(訴訟手続の法令違反その一-証拠能力のない自白調書の証拠採用の主張)について

1 所論は、要するに、次のようなものである。すなわち、被告人は、中国系マレイシア人であって、その第一言語は客家語であるが、広東語であれば、第一言語に準ずるものとしてこれを理解し、かつ、自由に使うことができる。これに対し、北京語については、被告人は、一応の意思疎通はできるものの、細かく正確に北京語で自由に表現できるとは言い難い状況にある。なお、被告人は、一応、日本語も話し、聞くこともできるが、細かい正確な表現は困難である。しかるに、捜査段階においては、勾留質問の際に広東語による通訳が行われただけで、被告人に対する取調べは、全て北京語による通訳を介して行われ、そのため、被告人は、取調べの内容を十分に理解し、細かい正確な表現をすることができなかったのである。しかも、取調べの結果作成された被告人の各自白調書には、広東語又はタガログ語による通訳を介して行った旨誤った記載がなされている。この点、市民的及び政治的権利に関する国際規約一四条三項(a)及び(f)は、刑事被告人に通訳の援助がされるべきことを定めており、これを欠くときは、右国際規約違反として、訴訟手続の法令違反に当たる。そうすると、右各自白調書は、被告人が自由に理解し表現できない北京語を用いて行われた取調べの結果作成されたものである上、用いられていない広東語などの通訳を介した旨記載されているのであるから、右各自白調書には訴訟手続上看過できない重大な誤りがあり、その誤りは、右各自白調書の証拠能力を喪失させるものといわなければならない。したがって、右各自白調書を証拠として採用した原審の訴訟手続には、判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の違反があるというのである。

2(一) 原審記録を調査して検討すると、被告人の検察官(四通。原審検察官請求証拠番号乙第四号、第七号、第八号及び第一〇号。以下、甲乙の番号は、原審検察官請求証拠番号を示し、弁の番号は、原審弁護人請求証拠番号を示す。)及び司法警察員(六通。乙第一号ないし第三号、第五号、第六号及び第九号)に対する各供述調書(以下「本件各自白調書」という。)は、原審第一回公判期日に、検察官から証拠調べの請求があり、被告人(弁護人)が証拠とすることに同意し、証拠として採用されて、証拠調べの行われたものである。

ところで、捜査官らによる被告人に対する取調べに際し、通訳に用いられた言語については、本件各自白調書のうち、司法警察員に対する平成九年一〇月一六日付け供述調書(乙第二号)には、その前書及び後文に「タガログ語で」取り調べた旨及び読み聞かせた旨の記載があり、一方、司法警察員に対する同年一一月一一日付け供述調書(乙第六号)の前書及び後文には用いられた言語に関する記載がないが、その余の各調書には、その前書及び後文に通訳人を介して広東語で取り調べた旨及び読み聞かせた旨の記載がある。さらに、乙第二号調書及び乙第六号調書を含め、本件各自白調書全ての各末尾には、被告人及び作成者である司法警察員又は検察官の署名押印に加え、通訳人として李家彰が署名押印を行っている。そして、原審においては、本件各自白調書は、右のとおり、被告人が証拠とすることに同意して証拠調べの行われたものであり、通訳に用いられた言語に関し、右各調書の記載や通訳人の署名押印等に誤りがあるという主張は一切行われていない。この点、たしかに、関係各証拠に照らし、被告人がタガログ語に全く通じていないことは明らかであり、したがって、乙第二号調書の「タガログ語で」取り調べた旨及び読み聞かせた旨の記載が誤りであることも明らかである。しかし、乙第二号及び乙第六号以外の各調書の前書及び後文における記載、すなわち、右各調書の作成に当たり、通訳人を介して広東語で取り調べ、かつ、読み聞かせたとの記載については、原審で取り調べた関係各証拠を精査しても、これが虚偽ないし誤った記載であることを窺わせるような状況は一切存在しない。なお、被告人も、原審公判廷における供述中では、自分が、捜査段階で取調べに際し北京語を用いられたなどとは一切述べていない。したがって、右各調書の前書及び後文における右のような記載並びにその末尾の通訳人李家彰の署名押印に照らせば、右各調書の作成に際し、被告人に対する取調べは、通訳人李家彰の広東語による通訳を介して行われたことが十分に認定できるのである。さらに、乙第二号及び乙第六号の各調書にも、その末尾に通訳人として李家彰の署名押印があることと、その他の各調書の作成に際してはいずれも、右のように、同通訳人が広東語による通訳を行ったものと認められることと合わせ考えると、乙第二号及び乙第六号の各調書の作成に際しても、その他の調書の場合と同様に、同通訳人による広東語での通訳が行われたものと十分窺うことができるのである。

(二) さらに、当審における事実取調べの結果をみると、被告人は、当審公判廷における供述中で、捜査段階では、勾留質問の際に女性の通訳人が用いたのは広東語であったが、それ以外の場合は一人の男性の通訳人が通訳に当たり、その通訳人の用いたのは全て北京語であったという趣旨の供述をしている。しかし、本件各自白調書に通訳人として署名押印した李家彰は、当審公判廷において証人として供述した際、本件各自白調書の作成に際しては、自分が通訳に当たった、その際用いたのは、原則として広東語であったが、時たま被告人から北京語で答が返ってくることもあり、むしろ通訳を正確にするため、広東語と北京語の両方を遣って通訳をすることもあった、なお、被告人には、北京語についても広東語と同様の能力があったという趣旨の証言をしている。そして、李家彰の右証言は、内容的に極めて自然なものであって、十分に納得できるものである上、同人が広東語についても二年ばかり学校で学んでいることなど、その学歴、横浜市所在の中華学校(高等学校)で標準中国語(北京語)の教師を約一二年間していたという経歴、これまでの一〇年にわたる通訳の経験等に照らし、右証言の信用性に疑念を抱く余地など全くない。これに対し、被告人の当審公判廷における右供述は、当審に至って突然言い出したことであり、何故に言い出すに至ったのか合理的な説明もなく、内容的にも李家彰の右証言と対比して、到底信用できるものではない。

(三) 以上みたように、原審記録中の関係各資料に当審における事実取調べの結果を総合すると、被告人は、捜査段階で取調べを受けた際、途中で北京語による通訳が混じったことはあるものの、全体としては、広東語による通訳を介して取調べを受け、かつ、供述をしたことが優に肯認できるのである。したがって、捜査段階で、被告人に対する取調べ及び被告人の供述が、被告人の自由に理解し表現できない北京語を用いて行われたとの前提で、本件各自白調書につき、いずれも証拠能力がないとする所論は、まず、その前提において失当というほかない。

3 なお、一般に、外国人に対する捜査段階における取調べや公判廷における手続に際し、当該外国人の母国語や最も得意とする言語が用いられなかったとしても、当該外国人の理解する言語が用いられていれば、それらの手続が違法であるということはできず、また、市民的及び政治的権利に関する国際規約一四条三項(a)及び(f)の各規定の趣旨に反しないことも明らかである。

そして、本件の場合、李家彰の前記証言によると、被告人は、北京語についても広東語に準じるくらいの表現力等を有していることが認められ、また、原審において弁護人の請求により証拠として取り調べられた被告人作成の書簡二通及び上申書(弁第二号ないし第四号)の記載内容をみると、被告人は、原審公判段階においては、漢字及び平仮名等を交えた日本語による読み書きも十分に可能であると認められる上、日本語による会話にも相当程度習熟していることが窺われるのである。したがって、捜査段階で、被告人の取調べに際し、広東語のほか北京語がかなりの範囲混じっていたとしても、被告人は、これを理解し、捜査官との間での意思疎通も十分に可能であったと認められるのである。なお、原審における公判審理は、被告人質問も含めて、北京語の通訳人を介して行われたことが明らかであるが、被告人の右のような北京語の能力や日本語に対する習熟度に照らし、被告人の理解できる言語によって手続が進められたことは十分に肯定できるのである。すなわち、本件においては、捜査段階及び公判段階を通じ、通訳に用いられた言語が被告人に通じないものであったため、その手続が違法とみられるような状況は全く存しないのである。

4 以上要するに、本件各自白調書は、その作成に当たり、通訳に用いられた言語によってその証拠能力を失うものでないことが明らかであるから、右各自白調書を証拠として採用した原審の訴訟手続には、所論のような判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の違反はない。論旨は、理由がない。

三 控訴趣意第二点(訴訟手続の法令違反その二-実質的弁護権の侵害の主張)について

1 所論は、要するに、次のようなものである。すなわち、被告人は、捜査段階及び原審公判段階において、弁護人と通訳を介して十分な打ち合わせをする機会を設けられず、また、原審公判廷において、自ら事実経過を十分に述べ、その防御を尽くす機会を与えられなかった。この点は、刑事被告人に弁護人による十分な弁護の機会を与えるべきことなどを定めている憲法三七条三項並びに市民的及び政治的権利に関する国際規約一四条三項(a)、(b)、(d)及び(f)に違反するものである。したがって、原審の訴訟手続には判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の違反があるというのである。

2 原審記録を調査して検討すると、原裁判所は、被告人が国選弁護人の選任を希望したことから、弁護士八巻正雄を国選弁護人に選任したこと、原審の審理は、同弁護人が出席して進められたこと、被告人は本件公訴事実を全面的に認める態度をとり、同弁護人も事実関係を争わない態度をとったこと、そして、同弁護人は、原判示第四の傷害の被害者との間の示談交渉を行い(ただし、その示談は、被害者側の被害感情が厳しかったことなどから成立には至らなかった。)、その経過に関する報告書を証拠として提出したほか、被告人の反省状況等に関し、被告人作成の書簡等三通(弁第二号ないし第四号)を証拠として提出し、さらに、公判廷において、本件各犯行に至る経緯やその具体的状況、被告人の反省状況等に関し、被告人に対する質問を行い、これに基づき弁論を行ったことなどが認められる。また、被告人と弁護人との間の連絡に関しても、被告人作成の被告人から同弁護人に宛てた書簡(弁第二号)は、漢字及び平仮名等を交えた日本語で記載されたものであり、その記載内容に照らし、同弁護人が被告人と接見した際、所論指摘のように通訳人の立会がない場合があったとしても、被告人と同弁護人との間の意思疎通は日本語を用いて極めて緊密に行われたことが窺われるのである。

3 右のような原審における弁護人の選任経過や弁護活動の内容、弁護人と被告人との連絡状況等に照らし、被告人には弁護人による十分な弁護の機会を与えられていたことは明らかである。したがって、原審の訴訟手続には所論のような判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の違反はない。論旨は、理由がない。

(松本時夫 中谷雄二郎 高橋徹)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!